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第1回

ふと振り返ると、ジャズを聴き始めて30年がたっていた。

兄の影響もあって中学一年の時突然ジャズに目覚めてしまった。

といってもステレオもなくラジオだけが頼りだった。毎日毎日新聞のラジオ欄を見てはジャズ番組を探して本当に必死に聴いていた。

地方都市の悲しさ、民法のラジオ局は信越放送ただ一局。東京の番組は聞けない。でも必死になって周波数を合わせて聴いていた。

電波の状態が良いときは比較的鮮明に聞けたのだが、悪いときは雑音の彼方に音が遠くなったり近くなったりのなかでラジオにかじりついていた。

そんななかNHK/FM「ジャズ・フラッシュ」はありがたかった。2時間というワクで長い演奏もカットされることなくオンエアされた。毎週パーソナリティが変わってその都度特集を組むので、ジャズ初心者の自分には本当にありがたかった。

「青木啓さんのヴォーカル特集」「大和明さんのメインストリーム・ジャズ」「児山紀芳さんのジャズの今」などだった。

毎回2時間があっというまであった。あの番組で教わったレコードは数知れない。

と同時にテレビの深夜映画で結構ジャズメンの伝記映画を見た。ビリー・ホリディのでた「ニュー・オルリーンズ」「グレン・ミラー物語」「ベニイ・グッドマン物語」「五つの銅貨」「ドーシー兄弟物語」「W.C.ハンディ物語」等々、憧れのジャズマンが実際に演奏し動いているのに感激だった。

今でも忘れられないのはカーク・ダグラス主演の「情熱の狂想曲」とポール・ニューマン主演の題名を忘れてしまったがパリが舞台のジャズ映画だ。(どなたか題名を教えて下さい)クラブ・サンジェルマンがでてきたり当時のフランスの一流ジャズマンがでていた。

あと言うまでもないが、ミュージカルもジャズとの大事な接点だった。ジャズへの想いがアメリカいやニューヨークへの憧れになっていった。

しかしいくらラジオでジャズを聴いても物足りない。やはりどうしてもレコードが欲しかった。いつもレコード屋の前をうらめしそうに見ていた。でもステレオもない自分にとって、レコードを買ってもとあきらめていた。

ということで、次回は初めて買ったレコードの話です。


第2回

毎月スイング・ジャーナルのレコード評を見てはため息をついていた。ステレオが無いためにレコードが買えなかったからだ。

今ほどの発売枚数ではなかったにしろ、ラジオだけでは到底カバーできなかった。あれもこれも聴いてみたい。欲求不満が毎日たまっていった。

初めて買ったのは「オスカー・ピーターソン/ハロー・ハービー」中学2年の夏、意を決してレコード屋に入った。膨大なレコードに圧倒されて2時間ほどアレコレ迷った末にこのレコードをカウンターに持っていった。

お金を払うと一目散に家に帰ってジャケットをながめた。そのときの新譜だったと思う。ダブル・ジャケットで解説は油井正一さんだった。

家にステレオは無かったが、祖母の踊り練習用のポータブル・プレーヤーがあったのでそれを借りて聴いた。恐る恐る針を落とすとそこからまぎれもないJAZZが流れてきた。もう嬉しくて嬉しくて、半日聞き続けました。

毎日毎日学校から帰ると真っ先にプレーヤーの前に行きレコードを聴いていた。なにしろその一枚しかないからアドリブも全部覚えてしまった。今でもこのレコードを聴くたびにあの頃を思い出す。

結局中学時代はそのレコード一枚だけであった。ステレオを買うまで我慢する事になった。

すり切れるまで聴いた一枚というなら僕にはこのレコードになる。

ハロー・ハービーHello, Herbie

OSCAR PETERSON / Hello, Herbie

昔の仲間のハーブ・エリスとの再会セッション。A面 2曲目の「イクザクトリー・ライク・ユー」ギターのイントロで始まり、1分12秒サム・ジョーンズのベースが加わる。
オスカーはいつものうなり声をころし息をひそめながら慈しむようにこの曲を弾く。
1分56秒ごろ耐えかねたように大きく息を吸い込むオスカー。
このへんのやりとりがジャズそのものを感じる。
ただ残念なのはこの大きく息を吸い込む音が再発の度に小さくなっていくことだ。エンジニアは単なる雑音と思っているのか?
オスカーのMPS時代のベスト3に入ると確信する一枚。
ぜひオリジナルで欲しいと思っています。


第3回

念願のステレオが買える日がついにやってきた。高校受験合格のお祝いに父がお金をだしてくれた。

といっても、アンプは兄のお古、スピーカーはフォスターの103(10センチ・フルレンジ)を兄と二人で作った自作の箱に入れたもの。プレーヤーだけ買ってもらった。

ちょうど兄が東京に帰るのでそれについていって秋葉原で買うことにしたのである。二泊三日の東京行き。嬉しくてしょうがなかった。急行の自由席に乗り込み東京へ向かった。  

国分寺の兄のアパートに荷物をおき早速吉祥寺「ファンキー」へ。ドアを開けると同時に音の塊が僕を襲う、地下に降りていくとそこに広がる異様な光景、奥に鎮座するパラゴン。ただただ圧倒されるだけであった。

その夜兄の部屋で聴いたジャズはいまでも忘れられない。まさしく東京の音がした。

次の日ションペン横町の鯨カツ屋で夕食。永島慎二の「フーテン」の風景が目の前にあった。

そのあと「ピット・イン」で本田竹彦(あえて竹彦と書く)のライブをみる。生の迫力。本当にそこでジャズをやっているのである。興奮して眠れなかった。

そして今回の最大の目的秋葉原。兄の案内でテレオンへ。すべて兄にお任せで一台のプレーヤーを購入。僕には宝物に見えた。とりあえず兄のアパートで接続音を出す。感動した。

兄に借りたジーパンを脱いで学生服に着替えて東京を後にした。  

吉祥寺「ファンキー」でのパラゴンからの大音量のジャズ、新宿ピット・インでのライブ、ションペン横町の鯨カツ屋。秋葉原の電気街。そして国分寺のアパート。中学生にとって恐ろしいほどのカルチャー・ショックだった。

めくるめく三日間の体験だった。

お茶の水「ディスク・ユニオン」で買った2枚のレコードとプレーヤーを持って僕は松本に帰った。

早速レコードを聴いてみたが、兄のアパートで聴いた音はでてこなかった。

それからの3年間「東京へ行って、アパートを借りること」が僕の人生の目標になった


第4回

高校生活がスタートした。

ステレオが揃ったおかげで、以前にもましてジャズを聴くようになった。

小遣いが限られているので、毎月一枚レコードを買うのがやっとだった。

それだけに失敗は許されない。スイング・ジャーナルのレコード評をはじからはじまで、なめるように読んだ。基準としては四つ星以上、名盤であること、フリーではないである。

毎月25日に小遣いを貰うとレコード屋に一直線。目当てのレコードを探す。ところがレコード棚の前にたつと、決めておいたはずなのに迷うのである。ジャケットを見てしまうと気持ちがぐらつく。

あれこれとレコード棚の前を行ったり来たり、2時間ほどしてやっと一枚のレコードを買って帰る。ダッシュで帰る。家に着くや部屋に直行。ステレオのスイッチを入れ、ライナーを出しレコードをかける。

期待通 りなら喜びもひとしおだが、はずれだと落胆も大きい。後悔でしばらくは立ち直れないのである。

そんなこんなで一枚一枚と少しずつだがレコードが増えていった。

そんな中初めて買ったヴォーカルはアニタ・オディアニタ・シングス・ザ・モスト」。スキャットのかっこよさ、粋な節回しとハスキーヴォイスにたちまちアニタの虜に。

後年見た「真夏の夜のジャズ」でもアニタは光っていた。

僕をジャズヴォーカルに導いてくれたこのレコードを今でも時々取り出して聴いています。


第5回

高校3年間はとにかくジャズ一筋だった。自分の将来の目標は「ジャズ喫茶をやる」だ。今でもその夢は捨ててはいないが。

毎月の小遣いをすべてレコードにつぎ込んでいた。

タバコを吸い始めたのはこのころだった。友人の一人が下宿生活をしていて、そこに出入りするようになってタバコを覚えた。タバコを吸いながらジャズを聴く、チョット大人になったような気分だった。

ただ小遣いを全部レコードにつぎ込んでいるから当然お金がない。親父のタバコを失敬したり友達から貰いタバコでしのいでいた。

ある日「マイルス・イン・ベルリン」を買った。マイルスがタバコをくわえているやつである。

あの枯葉の出だしのマイルスのペットの音にまいった。観客のどよめきが聞こえてきそうである。枯葉といえば「サムシン・エルス」が有名だがボクとしては「マイルス・イン・ベルリン」がぴんとくる。

ウエイン・ショーターの初参加云々はべつにして全員のやる気がビンビンと伝わってくる。ハービー・ハンコックのピアノも快調だ。

今ではもうタバコもやめたが、タバコというと「マイルス・イン・ベルリン」を思い出す。

マイルス・イン・ベルリンマイルス・イン・ベルリン

マイルス・イン・ベルリン

マイルスが恋いこがれたウエイン・ショーター初参加作品。マイルスのペットが力強い。「枯葉」の意表をついた出だしは圧巻。ライブ・パフォーマンスならではの迫力に充ちた演奏に思わず膝が乗り出す。とくにハービー・ハンコックのピアノがすごい。マイルスのタバコにジャズを感じる。


第6回

何とか大学にもぐりこみ念願の東京生活が始まった。

とりあえず高円寺の知人の家に間借りした。といっても半アパートみたいなところで部屋は4畳、ガスと水道がついていた。

友達が泊まると一人が押入れに頭を入れないと寝られないような部屋だった。それでも憧れの東京生活に興奮していた。

まず真っ先に松本から持ってきたステレオを設置。

うれしかった。

たいした荷物もなかったが部屋の片付けもそこそこに高円寺のジャズ喫茶へ。最初に行ったのが南口のサンジェルマン、坊主頭のだみ声のマスターがいるジャズ喫茶の老舗だ。

一歩入るなり常連とおぼしき客のジロリが、それでもめげず端っこに座る。文庫本とタバコを取り出しまずイップク。実にうまかった。

これから毎日ジャズ喫茶にこられる幸せに浸りきっていた。

その当時高円寺にジャズ喫茶はたしか4軒あったと思う。二カスはすでになくなっていた。

東京にきて一ヶ月、毎日の生活費を削ってレコード代をためた。新宿の輸入盤専門店に向かう。

松本では見なかったレコードが所狭しとおかれている。

予算は2万円ほどあった。今までは月に一枚買うのがやっとだったのに。今日は沢山買える。

エサ箱を端から端まで丹念にみる。隣でレコードを見ている人がやけにマニアにみえる。自分が手に取っている初心者盤がちょっと恥ずかしい。それでも8枚ほど選んでレジへ。検盤して代金を払って帰途につく。

8枚ものレコードを買ったのは生まれて初めて、そのレコードの重さが心地よかった。

ジャズ喫茶にはよらず下宿へまっしぐら、そく聴いてみた。ライナーを読みながら一枚一枚じっくりと聴いた。

その当時つけていたレコードリストを見ると8枚のラインナップがチョー有名盤ばかりでちょっと気恥ずかしいが、でもあの日のことがそのリストから鮮明に浮かんできた。



第7回

当時高円寺には「アズ・スーン・アズ」というライブ・スポットが南口にあった。夜3回のステージがあり、12時までやっていた。3回通 しで見ても確か1000円以下でワンドリンクついていた。

まだ東京に出てきて1週間、大学のオリエンテーリングやなれない電車通 学で少し疲れ気味だったのと、まだ純情で仕送りの金を出来るだけ節約していた。ライブ決行は4月末、5月分の仕送りが来てからにすることにした。

取りあえずスイング・ジャーナルの地図を片手にまずその場所を探した。駅からすぐそばで僕の北口の下宿から10分程度だった。おもてにスケジュール表がありこのスケジュールをメモった。スイング・ジャーナルでよく見る名前を見つけるともう興奮だった。とにかくどのライブを見に行くかサンジェルマンで作戦を練ることにした。

ライブ決行の日、まずは北口のハンバーグ屋で腹ごしらえをしてアズ・スーン・アズへ向かった。入り口で少しだけ躊躇して階段を上がっていった。一呼吸してからドアを開け、ドキドキしながら中へ。コーヒーを注文して一番後ろの席に座った。客はまばらでまだ席はガラガラだった。3年前兄に連れられて行ったピットインは満員で立ち見までいたのに、ちょっとがっかりした。

その日のギグは水橋孝のグループだったと思う。アフロヘヤーの水橋が入ってきたときはビックリしてしまった。あんなの松本にはいなかったから。

水橋のガールフレンドとおぼしき女性が一番前に座ってビールを注文していた。ひどく大人に見えた。

とにもかくにも演奏が始まり、僕は一番後ろの席で小さくなりながらステージを凝視していた。おかわりのコーヒーを注文するお金は無かったからコーヒーを節約しながら聴いていた。

それでもシンバルの炸裂音やテナーの咆哮に僕は酔っていた。一部の演奏が終わってもまだ耳の中に音ががーんと残っていた。

結局最後のステージまでコーヒー1杯で粘った。

最終ステージが終わって三々五々お客が帰り始めた、僕はしばらく放心状態だったとおもう。

余韻を楽しむように席で最後の一口を飲み干してアズ・スーン・アズのドアを押した。

階段を駆け下り下宿先へと小走りでかえっていった。

寝床に入ってもまだライブの時の音が耳のなかで鳴り響いていた。その晩はとうとう朝まで眠れなかった。

その時から国分寺へ引っ越すまで毎月月末はアズ・スーン・アズでのコーヒー1杯のライブで過ごすこととなった。



第8回

半年がたち東京にもずいぶんと慣れてきた。

大学の仲間も出来、生まれて初めての電車通学にも余裕が出てきた。段々と活動範囲を増やし、持参したスイング・ジャーナルの地図をみて色々なジャズ喫茶に行ってみた。

当時のジャズ喫茶はほとんど「おしゃべり禁止」で常連の主がいた。その視線をかいくぐって座席に座る。とりあえず全体を眺めてこの喫茶店の状況を頭に入れる。

ジャズ喫茶には独特の作法みたいなものが各店にあった。リクエストなんてなかなか出来なかった。持ってきた文庫本を読むふりをしながらチラチラとカウンター辺りをみながら、かかっているレコードをチェックした。気に入ったレコードは素早く頭にいれた。メモするなんて絶対に出来なかった。そんなことしたら直ちに初心者のらく印をおされて店員に馬鹿にされるのだ。だから本当に気に入ったレコードがあるときはトイレに行きながらジャケットを確認するのです。(ジャズファンってみんな見栄っ張りなんです)

サンジェルマンは僕のホームグラウンドで、大体1週間に3回以上は行っていた。昼間は長髪のアルバイト(副店長?)がしきっていた。そこのドライカレーが美味しくてお金に余裕があるときは時々遅い昼食がわりに食べていた。たまにリクエストも出来るようになっていた。

あるとき昼間行くといつもは夜しかいないマスターがカウンターにいた。坊主頭のマスターはちょっと恐そうで口をきくなんてとても出来なかったが、思い切ってリクエストをかけた。

そうしたら例のダミ声で「そんなの、昼間かけらるかよ。夜にしな」とにべもなく断られてしまった。僕は小さな声で「すみません」とうなだれるしかなかった。

あの時あんな度胸がどこにあったかわからないが、夜にもう一度行った。席についてしばらくしてから覚悟を決めてマスターに昼間と同じレコードをリクエストした。

マスターは「ニヤリ」と笑って僕のリクエストをかけてくれた。

恍惚の20分間だった。

MGV8327Coleman Hawkins Encounters...

COLEMAN HAWKINS Encounters BEN WEBSTER(VERVE MGV-8327)

ベン・ウエブスターが大先輩コールマン・ホーキンスと共演した1枚。
オスカー・ピーターソン以下のリズムセクションにのり堂々たるプレイを繰り広げる。
僕はB面が好きです。

今考えるとやはり昼間聴くレコードではないですね。
今はないサンジェンルマンが思い出されます。



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